レターズアルパック
Letters arpak昨今の学校環境についての疑念
「Do architects have ears?(建築家に耳はあるのか?)」
これは、Julian Treasure が TED Global 2012 において、半ば揶揄的に用いた言葉である。
「Do architects have ears?(建築家に耳はあるのか?)」
これは、Julian Treasure が TED Global 2012 において、半ば揶揄的に用いた言葉である。
彼は、廊下と教室のあいだに仕切りを設けない〝開放的〟な学校建築の事例を紹介していた。設計者は、自由で流動的な学習空間を志向したのだろう。しかし実際には、教師の声は反響し、隣室の雑音は流れ込み、子どもたちは話を聞き取れなかった。結果として、その学校は多額の費用を投じて壁を後付けすることになる。そこでは、「開放性」という理念が、「聞こえる」という極めて根源的な機能に敗北していた。
当時学生だった私は、この講演に強い衝撃を受けた。ただし、衝撃の本質は音環境そのものではない。学校建築が、建築家の実験場になっているのではないか、という疑念である。
学校とは、本来きわめて保守的であるべき空間だ。なぜなら、そこは未成熟な人間が、一日の大半を過ごす環境だからである。にもかかわらず、学校建築にはしばしば、その時代の建築思想や流行が持ち込まれる。開放性、多目的性、可変性、偶発的コミュニケーション。もちろん、それ自体は魅力的な理念である。しかし問題は、それらが子どもの学習や生活に、本当に資するのかという検証が曖昧なまま導入されることである。
たとえば昨今、多目的用途の空間は教育施設において半ば理想のように語られる。だが、人間の集中という観点から見れば、空間の用途が曖昧であることは、必ずしも好ましいとは限らない。ある研究では、人は環境によって認知モードを切り替えているという。いわば「集中のスイッチ」である。教科ごとに教室を移動する教科教室型は、この意味でも合理的なのかもしれない。教室の移動、空間の変化が、意識の切り替えを促すからだ。そう考えると、「何にでも使える空間」は、「何かに集中する空間」になりきれない可能性がある。
しかし一方で、私は学校をただ〝勉強する場所〟だとも思っていない。学校は、「基礎学力」と同時に、「社会性」を学ぶ場所でもある。社会性とは、他者を観察し、距離を測り、ときに衝突しながら関係を調整していく能力である。気の合う友人だけではなく、苦手な相手、理解できない他者とも、どう共存するかを学ぶ場と言ってよい。その意味では、多目的で曖昧な空間には、偶発的な関係性を生み出す力があるのかもしれない。教室という明確な役割空間から溢れた場所で、人は予定外の他者と接触するからである。
果たして、社会性の学びは再現性、実証性のある科学として作り上げられるのか。この点が、学校建築及び義務教育を難解にしている。だからこそ、我々は教育の科学を目指し、もがき続ける必要はある。しかし、理想や面白さを掲げ、検証もろくにしない安易な実験に子どもを巻き込むのはいささか高慢である。教育は、建築のように図面通りにはいかない。同じ空間、同じ教師、同じカリキュラムであっても、育つ人間は一人ひとり異なる。教育は、単純な効率や合理性だけでは割り切れず、そもそも科学として完全に扱おうとすることに無理があるのかもしれない。それでもなお、我々は「どのような環境が、人をよりよく育てるのか」という問いを手放すことはできない。学校建築とは結局、壁や天井の話ではなく、「人はどう育つのか」という、人間そのものへの問いなのだろう。
増見 康平
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