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217号(2019年9月号)今、こんな仕事をしています

吉香茶室の修理


吉香茶室という茶室をご存知でしょうか。錦帯橋(国指定名勝)といえばどなたもご存知のことと思います。錦帯橋は、岩国市錦川に架かる5連の美しいアーチ橋です。

 吉香茶室という茶室をご存知でしょうか。錦帯橋(国指定名勝)といえばどなたもご存知のことと思います。錦帯橋は、岩国市錦川に架かる5連の美しいアーチ橋です。

錦帯橋

錦帯橋

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに際して、毛利輝元に仕えていた吉川広家は、西軍豊臣方でありながら東軍徳川方の勝利を予測し戦では中立を守り、毛利家の存続に奔走します。その結果、家康は毛利家断絶を改め、輝元に周防国・長門国を与えました。広家は、輝元より岩国(3万石)を与えられ、慶長6年岩国に入封、城下町造営に着手します。広家は、横山山頂に城を築き、錦川を天然の外堀として、右岸横山に諸役所や上級武士の居住区を、左岸錦見に中下級武士や町民の居住区を築きました。

岩国城から城下町俯瞰

岩国城から城下町俯瞰

 そのため、錦見に住む下級武士は、横山に行くために200メートルの川幅のある錦川を渡らなければなりませんでした。当時錦川は度々氾濫し、橋は橋脚ごと流出したことから、三代目当主(藩主)である吉川広嘉は早くから流れない橋の研究を進めていました。ある時、明の帰化僧・独立から西湖の5つの島に架かるアーチ橋の話を聞き、これをヒントに5連橋の錦帯橋を思いつきます。以後何回かの架け替えを経て現在の錦帯橋があります。
 話が少々長くなりましたが、こうして吉川家は岩国の領主として明治維新を迎えます。第十二代当主(藩主)である吉川経幹は廃藩置県により東京に居を構えましたが、経幹の長男経健は、明治25年(1892)東京から岩国に住居を移します。その際、邸内の祖霊社と共に移築されたのが現在の吉香茶室です。
 吉香茶室のある横山には、かつて岩国高校があり、その跡地を中心に現在は吉香公園として市民や観光客の憩いの場となっています。吉香公園の北東ゾーンは、吉川家の居館があった御土居と堀に囲まれて吉香神社(国重要文化財)や錦雲閣(絵馬堂)(国登録有形文化財)、旧吉川家廐門(国登録有形文化財)、能舞台などが横山山頂に再建された岩国城と一体となった美しい歴史的景観をみせています。吉香茶室は、その中でシイの大木に囲まれるようにひっそりと佇んでいます。
 隣接して、日本の近代建築運動を主導しつつ、数寄屋造りの美とモダニズム建築の統合を図った建築家、堀口捨巳設計の旧吉川家岩国事務所(県指定有形文化財)や、旧制岩国高校を卒業した建築家、佐藤武夫設計の岩国市の博物館である岩国徴古館(国登録有形文化財)が建ち、岩国の戦国時代から中世、近世、近代、現代が息づくところとなっています。

旧吉川家岩国事務所

旧吉川家岩国事務所

 

岩国徴古館

岩国徴古館

 吉香茶室は、昭和26年岩国市に寄付され、昭和49年に隣接して新茶室が建築されました。
 今回、吉香茶室の修理の設計にあたり、現存する形を変えないために屋根裏と床下に耐震リングを設置して耐震性を確保しました。屋根は瓦と銅板を全面的に葺き替えましたが、古い瓦は今回新しく作庭した茶庭に使用しました。茶庭はかなり荒れた状態でしたので、今回の修理で新しく作庭することとなり、蹲や飛び石などはそのまま用い、外露地や内露地を明快にできるよう露地門や中門、外待合などを配置し、全体の動線を含め作庭しました。
 今回、私たちは吉香茶室の修理に際して、茶室の公開計画を併せて策定しました。年間60万人を超える観光客が訪れる錦帯橋ですが、残念なことに北東ゾーンまで足を運ぶ人はそう多くありません。岩国市の観光の課題を踏まえ、吉香茶室を吉香公園の中に積極的に位置づけ、回遊動線を明確にして人々の回遊性を高めることが目的です。
 現在、吉香茶室では岩国茶道連盟により毎月茶会が開かれています。また、さまざまな人がお茶を楽しめるよう、新茶室では立礼席による呈茶ができるように計画しました。
 岩国の旧城下町では、地域住民を中心に地域の活性化を図るための取り組みが進みつつあります。私達はそのお手伝いを今も続けており、岩国通いはしばらく続きそうです。
 吉川家は、毛利元就の次男元春を祖とし、広島県旧豊平町に居館を構えました。アルパックは、2006年史跡吉川元春居館跡ガイダンス施設の設計をさせていただきました。このご縁が今に届いています。

吉香茶室全景

吉香茶室全景

 

茶庭夜景

茶庭夜景

 

建築プランニング・デザイングループ 高坂憲治

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