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217号(2019年9月号)特集「とどける」

二十八災


昭和28年(1953年)は、大変な年でした。大学4回生で、今でいう災害救援ボランティアを体験し、二次災害にも遭いました。

 昭和28年(1953年)は、大変な年でした。大学4回生で、今でいう災害救援ボランティアを体験し、二次災害にも遭いました。
 河川関係者は、6月:西日本大水害(九州地方、死者1001、被災者100万)、7月:紀州大水害(近畿南部、死者1015、家屋全壊3209、流出7986)、8月:南山城大水害(死者336)を、まとめて、「二十八災」と称しています。
 夏休み中でしたが京都大学当局が被災した学生を救援するという名目で、慰問品を届けるため交通費を用意し、学生自治会である同学会が、帰郷していない学生、京都出身の学生に呼びかけ、救援隊が編成されました。文学部のA君、農学部のB君と私の3名の班は、紀州・和歌山県の日高川流域を担当することになりました。
 8月18日午後、学生部の角南厚生課長らに見送られて出発しました。和歌山大学の学生寮が救援センターになっていて申告して一泊。翌朝、寸断されている鉄道とバスを乗り継いで御坊に着き、工学部のN君宅を見つけました。家は鉄筋コンクリート。ドロが入っていますが無事です。「もっと上流へ行ってあげて」と、慰問品は受け取られないのです。次は上山路村のW君宅を目指し、着いたのは夕刻近く。大山林地主のお屋敷です。高台にあって、水害には関係なしです。「遠い所まで、ようきてくださって」と歓待されました。「上流の川上村がひどいらしい、そちらへもって行って」と逆に慰問品が増えてしまいました。
 日高川を見下ろす山道を歩いていると、山側がザーッ、ザーッと揺れるのです。サルの群れです。後になり、先になってついてくるのです。川上村の中心部、河原郷へ着いたのは、衝撃的なシルシで分かりました。道の上に家の藁屋根が被さっているのです。A村会議員宅が、センターになっていました。被災直後のままです。電気も復旧していません。村はずれにある小学校の体育館が、避難所になっていました。
 山ひとつ越えた数十人の集落は、いわゆる基層地滑りで、30メートルもの土に埋まってしまったそうです。夜中、悲痛な叫び声が聞こえたそうです。
 とにかく、何とか家へ帰れるよう、入り込んだ土石を取り除くことです。ハードです。紀州名物の「茶粥」を振舞ってくださるのですが、30分もすると、もとの空腹に。そうこうしていると、川の水がひいて、せせらぎのようになり、子どもたちが河原で遊ぶのです。と、古老が「アブナイ、川から離れろ」と叫ぶのです。上流で自然のダムができている。決壊するというのです。はたせるかな、轟音とともに、木材が踊って押し寄せてきました。アッという間に橋が流されてしまいました。さあ、たいへん。孤立してしまいました。
 川上村は、実は、筏流しの村なのです。上流の龍神村がキコリの村。切り出したヒノキを筏に組んで河口の御坊まで運ぶのです。鴨緑江まで筏流しに行っていたそうです。彼らが橋の架け方を教えてくれました。
 岸から2~3メートルの所に二股を立て、足元へ石を投げこんで固める。上流から長い材を流し、引っかけて、引っ張り上げ、二股にコトンと掛ける。岸から短い丸太を架ける。これで丸木橋ができます。二つ架けると橋らしくなります。
 筏師にもう一つ教わったのは、狼煙です。見通せる山々に、狼煙台があるのです。村から河口まで、意外に早く伝わるのです。そして、狼煙のボキャブラリーが、豊富なことも驚きでした。
 下流へ「橋が復旧した」と送ると「了解。今夕刻、御坊から、救援隊が、出発する。明朝着く」と知らせてきました。
 払暁、点々と連なってくる松明は、心強かったです。それからは、救援隊が続々きました。
 筏師の「流筏労働組合」がありました。夜、組合の総会に招かれました。手に手にローソクを灯して、幻想的でした。
 せいぜい、3~4日と思っていたのが、結局、3週間、京都へ帰り着いたのは、9月6日の夕刻でした。
 近年、雨量、風速は違わないようですが、人的被害は少ないです。河川管理と警報体制が進んだ結果かと思います。それに比べて、住民の訓練が失われていないでしょうか。以前は自治会で「水防団」を編成し、ボートを持っていました。

8月16日、巨椋池が再現(観月橋付近)

8月16日、巨椋池が再現(観月橋付近)

名誉会長 三輪泰司

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