レターズアルパック

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216号(2019年7月号)その他

アルパック・スピリッツ「日本万国博覧会会場計画」


「万博の会場は、たったの5年で基礎調査から計画・造成・展示まで疾風怒濤のように行った。事務所に泊まり込み、徹夜で作業を行うこともあった。」

「万博の会場は、たったの5年で基礎調査から計画・造成・展示まで疾風怒濤のように行った。事務所に泊まり込み、徹夜で作業を行うこともあった。」

 1970年の日本万国博覧会は想像を絶する大変な事業だったようです。会場計画は、「前半西山・後半丹下」と言われていたように、京都大学の西山グループは第2次案のマスタープランまでを作成し、丹下グループへと引き継がれました。第2次案のマスタープランに至るまでは、配置計画、土地造成計画や交通計画、インターチェンジの検討、跡地利用計画などが検討されました。

「検討は複数チームによる案を戦わせながら段階的に検討を進めていくワックスマン・ゼミナール方式により行なった。作成するのはマスタープランであり、提示した通りに実施計画が進むわけではないことは理解していた。」

 第2次案の作成後、計画の最も大切な部分であるシンボルゾーンの整備、水のリサイクルシステムの導入、お祭り広場の整備の3点を引き継ぐよう丹下グループの磯崎新氏に伝えたとのことでした。当時はマスコミに追いかけられ、落ち着いて話せる場所もなく、話し合いは野尻湖のボート上で行われたそうです。
 水のリサイクルシステム(水系)は公園となった今でも残っています。計画の位置付けを理解しながら、大きな考え方として何が大切かを考え、決定していくことが重要だと感じました。

「万博会場計画は造成技術の発展と計画技術の進歩への契機となった。万博会場の敷地であった千里丘陵は造成前には60メートルもの高低差があり、これを均すための技術が必要とされた。今の日本では造成計画は土木の分野と考えられているが、当時は建築家が全て計画した。」

 現在では建築家の職能は非常に限定的になっています。しかし、本来、建築家というのは人間をとりまく環境全てを計画・設計する役割を担うべきものだったのですね。
 後に万博会場は公共用地として300ヘクタールのこり、リザーブ用地として後々活用されていくこととなりました。都市の庭として、現在の万博記念公園のような広い緑地や公園は非常に重要なものです。
「近年、レガシーという言葉が盛んに使われている。レガシーを考える上では重要かつ様々な視点があるが、特にロケーションを考えることが重要である。」

 ずっしりと重い会場計画の基礎資料図集を見てみると、日本地図のスケールから検討が行われており、さまざまな面やスケールからトコトン考え抜く姿勢を忘れてはいけないということを再認識しました。
 計画を作成していた時、三輪は34歳。当時は大学の研究室で行なった団地の計画で造成計画をしていたことや、世界の都市や建築・都市計画事務所を回ったこと等、それまでの経験や知識が、万博会場の計画に活かされたのです。

[arpakと日本万国博覧会]
1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の会場計画第二次案の作成に、京都大学西山夘三研究室のメンバーらと共に参画し、また会場内の警備消防本部の設計も行いました。


「万博会場計画からは、ただ計画することだけでなく、経営の観点の大切さを学んだ。この時に学んだ経営の観点と計画技術を組み合わせることができるのが、アルパックの強みでもある。」

 アルパックが万博会場計画に関わったというのは知っていましたが、具体的にどんなことをしたかというのは知りませんでした。今回、会場計画や会場内の警備消防本部を設計した際の逸話などを聞くことができ、創業当時のアルパックや三輪のことを知る非常に良い機会となりました。
 また、三輪がロシアやヨーロッパのまちや設計事務所を訪ねた話から、若いうちにいろいろな都市を見て学び、経験を積むことの大切さを改めて実感しました。
 なお、現地では日本万国博覧会記念公園事務所の木下朋大さん、陣門泰輔さんに公園の現状についてのご説明とご案内をいただきました。ありがとうございました。

※アルパック歴の浅い職員が、アルパックのエポックとなったプロジェクトの現場を創始者の三輪泰司と共に訪れてアルパック・スピリッツに触れ、その一端を三輪自身の言葉とともにみなさんにご紹介します。

会場模型を前に話す三輪

塗師木伸介・ホアン ゴック チャン・長谷川育世

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